篠栗霊場の開創
篠栗霊場は、お大師さま(弘法大師・空海)が、
真言密教を極め唐の国よりお帰りになられた時に、この地を訪れ、
加持修法によって人々を救済された巡錫の地であり、
古来より若杉山を霊山と仰ぎ山岳信仰や真言密教の聖地として
多くの高僧が訪れ、堂宇が立ち並び隆盛を極めていた土地です。
しかし時の戦に巻き込まれ、一朝に灰燼と化し幾世期もの間、
歴史に埋もれてしまっておりました。
時代は流れ、江戸時代末期、四国遍路を終えた
「尼僧 慈忍師(じにんし)」が立ち寄り、
様々な災難にみまわれるこの地の人々を救う為に、
お大師さまに祈り、その霊験たちまちにあらわれ苦難は除かれていきました。
いまだ、お大師さまに見守られている霊域である事を悟った慈忍師は、
この地に八十八ヶ所の霊場を勧請し、
新たな安住の地として開く事を決意し、
天保六年(1835年)にまず数十体のご本尊を刻みました。
このときに十番札所切幡寺の御本尊様も勧請されました。
しかし、事業は難航し、慈忍師も志半ばで没し、
後にこの志を引き継いだ篤信の「藤木藤助翁」によって同行を募り、
四国霊場のお砂を授かり、
八十八体のご本尊を祀り篠栗霊場が嘉永五年(1852年)に開創されました。
篠栗霊場切幡寺は篠栗十番札所の守堂者となった「尼僧 恵良(えりょう)」によって開創された。恵良尼は、俗名をワカコと言い、絶世の美女とうたわれていた。
博多で芸者として虚飾の暮らしをするうちに青年医師との恋に落ち、かなわぬ恋のゆくすえ心中をはかるが、ワカコだけが命を取り留めた。
傷心のワカコは青年医師の追慕供養の為に寺を訪ね、そのときに触れた説法によって発心し出家得度を受け、名を恵良と改めた。
苦行の末、十番札所の堂主となり己を戒め一粒の米も、一滴の水も仏とあがめ、粗衣粗食にあまんじ、仏道一筋に苦修練行、四十余年の浄財で、堂宇を建立、寺門を開き当山を開創し、修行祈祷の道場とした。
以来、多くの信仰者を導き厳しい仏道を全うして生涯を終えた。
現在の本堂は、お大師さまご入定の聖地である高野山の霊気に直に触れていただきたいとの願いにより、高野山の霊木を授かり再建された本堂である。
また、戦国時代より人々の命を救い続けたと伝えられる秘仏の延命千手観音様も寺宝として祀られている。
持仏堂内には、高野山奥之院に千年来灯し続けられる「貧女の一灯」が奉じられ、本堂の奥に建立された仏舎利塔(納骨堂)には、タイ国ワット・パクナム寺院より賜ったお釈迦様の御真骨(仏舎利)が納められている。
お大師さまが四国阿波国(徳島県)を巡錫されていた時のこと、一人の機織りの娘に少しばかりの布を求められた。
娘は、惜しげもなく織っていた幡(はた)を断ち切り大師に献じた。
心打たれた大師が願いを聞くと、戦によって追われる身となり父は流罪となり、母は観音さまを信仰し不安から免れることができた。
両親の菩提を弔う為にも観音さまをお祀りし仏門に入り精進したいと言う。
早速大師は、慈悲深い千手観音像を刻み得度出家をほどこし、修行を終えた娘に最後の秘密灌頂を授けたところ、その身は七色の光を放ち千手観音に化身し苦しむ人々を救済していった。
そのことを大師は嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇が建立された。
幡(はた)を切って供えた寺が切幡寺である。
また、娘が悟り成仏した姿が千手観音さまであった事から、そのまま御本尊となった。
女人即身成仏、慈悲深く女性の強い味方であり、大願成就、厄除けの観音さまです。
千手観音さまは観音さまの王でもありその慈愛救済の御加護は菩薩一とも言われ、あらゆる願いを聞き入れてくださる菩薩さまです。
唐の長安青龍寺で密教の法を余すこと無く授かったお大師さまは、師である恵果和尚より「早く本国に帰り、教えを流布し、蒼生の福を増せ(人々に幸せを与えなさい)」との遺誨を受け帰国されました。
日本に戻られた大師は密教の道場としてふさわしい場所を探し、「鎮護国家、修禅の一院を建立せんがため、四方を峰に囲まれた人跡未踏の平原の幽地」を求め、小鳥が舞い、高山にありながら豊かな水に恵まれ、静寂であり霊性にあふれ、大自然のいのちを感じることのできる高野の地を選び、密教の根本道場とされました。弘仁七年(816年)
大師の入定留身(にゅうじょうるしん)の地であり、此の世に身を留め、未来永劫にわたり迷える者、苦しむ者を救うために奥之院の廟窟に入定され、今もなお人々の幸せを祈り続けられておられます。
奥之院はまさに、お大師さまがおいでになる場所、お会いすることができる場所であり、大師信仰の中核となる最も大切に護られた聖地です。
高野山への参詣は、「無始罪障道中滅」
ひとたび高野山に参詣すれば全ての罪障が道中にことごとく消滅し、仏国土へ赴く(救いを得る)ことができるという信仰が受け継がれています。
開創以来、1200年もの間法灯が護り続けられ、修行者はもちろん、全国から多くの大師信徒の参拝が後を絶つことはありません。
標高800メートルに位置し、東西6キロ、南北2キロの広大な盆地である高野山は、真言密教の根本道場として堂宇が立ち並ぶ壇上伽藍と、大師信仰の礎である奥之院御廟、2つの聖地を中心として、117の寺院、52の宿坊、土産物店や商家が立ち並びます。
宿坊寺院にはどなたでも宿泊することができ、それぞれの宿坊で勤行に参列させていただき、お写経の実習や精進料理などをいただくことができます。
樹齢数百年の杉の大木に覆われ御廟へと続く2キロにおよぶ奥之院の参道には、全国の諸大名をはじめ、名だたる戦国武将など20万基を超す墓碑が建立されています。
それは禅定に入り、祈り続けておられるお大師さまと共にありたいとの願いによるものです。
高野山は壇上伽藍・奥之院・金剛峯寺で執り行われる年中行事をはじめ、伝統儀式・伝統文化が今に伝わり、お大師さまの教えが今なお息づいている天下の霊場です。
密教の法を授かり帰国(806年)されたお大師さまは、九州の地にしばらく留まり、観世音寺(太宰府)に止住され、東長寺(博多)、鎮国寺(宗像)を開基されました。
若杉山を含む宝満山系、英彦山系などの山々でご修行され九州各地を巡錫されています。九州各地にお大師さまゆかりの地が多いのもそのためです。
密教の教えだけでは無く、当時最先端の文化や技術をも日本に持ち帰り、その文化・技術は今も日本各地で伝えられ継承されています。
真言密教の根本道場として高野山を開創(816年)された後、奈良東大寺に潅頂道場(真言院)を整備、四国満濃池の修築、京都東寺の別当を務め講堂を建立、庶民が学ぶことのできるはじめての学校となる綜芸種智院を創立されるなど、後の世に受け継がれる様々な事業をなさっておられるのです。
「虚空尽き、衆生尽き、
涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」
お大師さまは、高野山を入定(永遠の禅定)の地と定め「すべての人々の悩み苦しみ悲しみが無くなるまで私の願いは尽きることはない。生きとし生けるもの全てを苦しみから救い、共にさとりの世界へと入らしめたまえ。」という壮大なご誓願を立てられ、今なお高野山奥之院の御廟で、祈り続け救いの手を差しのべてくださっています。
また、お大師さまは大師ゆかりの地をはじめ、お大師さまのお名前を呼ぶ者のところへ、ご自身の身をいくつにでも分けて日々出向いてくださると言われてます。
お遍路さんが「南無大師遍照金剛」「同行二人(どうぎょうににん)」と書かれた笈摺を羽織り、金剛杖を持つのは、お遍路の道中であっても、いつもお大師さまがそばに付いて見守ってくださり、お大師さまと共に歩みたいという人々の願いによるものです。